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明治から令和へ
物語は紡がれていく

わたくしは幸福実現党のいき愛子と申します。
「いき」とひらがなで表記していますが、本当は漢字で「壹岐」と書きます。
「壹岐家」は旧薩摩藩士で、かの「せごどん」の「西郷家」とは深い関係にありました。
激動の時代に生をうけ明治の志士として西郷さんと共に戦い、若くして散っていった私のご先祖さま。
名前を「壹岐春記」といいます。その思いを胸に刻むべく、鹿児島と熊本の田原坂を訪れました。

田原坂を訪れて...

資料によると、溝辺(みぞべ)出身者である壹岐春記は六・七番連合大隊別府隊(突撃隊)に所属していました。
大隊長は西南戦争の最後、西郷さんを介錯した「別府晋介(べっぷしんすけ)」です。
旧薩摩軍は鹿児島から熊本城に向かって二つのルート(海側ルートと山側ルート)を取りました。
別府隊は山側ルートを経て熊本城下に入りました。そして、二月、熊本城攻防戦、高瀬の戦い、そして三月、吉次峠・田原坂の戦いの一大決戦へと繋がります。
西南戦争最大の激戦となった田原坂の戦いは、三月四日から二十日、両軍多数の犠牲者を出して政府軍勝利に終わりました。
私が田原坂に行った三月十九日は、偶然にも田原坂の決戦最後の日でした。
明くる二十日の未明、政府軍の奇襲により西郷軍は田原坂を後に敗走することになったのです。

Tabaru
zaka

すばらしい出会い...

今回の私たちの一泊二日の短い旅の中では、奇跡のような出来事や出会いが立て続けに起こりました。
田原坂ではじめてお会いした、郷土史家の方の温かいご尽力により、壹岐一族と西郷一族との驚くべき繋がりを発見しました。
薩摩藩に伝わる「本藩人物誌」の中に、江戸初期の元禄七年、島津忠平公の命により現在の宮崎県えびの市飯野へ藩士六十名が移り住んだという記録があります。
その中に「壹岐助兵衛(いきすけべえ)」の名前と西郷家のご先祖の名前が含まれていることが分りました。
両家は江戸初期から常に行動を共にしていた、親しい関係であったことは想像に難くありません。
鹿児島ではたまたまお会いした方が、なんと西郷隆盛さんの一族の方でした。家に呼んでいただいて、壹岐家の話は勿論、西郷さんにまつわる話もたくさん聞かせて頂きました。
そこではなんと私に同行していたカメラマンも、西郷さんと深いかかわりのある地域の出身であることが分ったのです。 〔本人も全く知らなかった〕
因みに、私の名前の愛子は、祖父が敬愛する西郷さんの信条、「敬天愛人」からつけてくれたものです。西郷さんの二番目の奥さんの愛加那(あいかな)さんの和名も愛子でした。

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自分としての誠を貫く…

残念ながら壹岐春記の墓までは見つからず、どんな最後を遂げたのかは分らないままです。
が、溝辺を出てから別府隊がたどった同じ道を歩くことで、百五十年前の明治の初め、志を持った薩摩の兵士たちの最後の目に写った、同じ風景をたどることが出来ました。
西郷隆盛さんは国を想い人を思う情の人であり、徳の人でした。が、誠と偽については峻厳な方でもありました。
薩摩藩の志士たちはそんな西郷さんを心から信じ、お国のため西郷さんのために立ち上がったのだと思います。
17歳の若く多感な壹岐春記も、西郷さんをお慕いしつつ、自分としての「誠」を貫いたのだと感じました。
それが今につながる壹岐家の気質です。
「国を想い人のために尽くす」、その気概をしっかり受け継ぎ、政治家として世のお役に立てるように精進して参ります。

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そして令和へ... 
私は政治家への夢を諦めない

今回の旅を通じて、私の先祖が自分のためではなく、日本の国の未来のために、命を懸けて闘った事実は、私にとって大きな財産となりました。
現在の日本も、国難の中にあります。
与野党内の政策をみれば、「国防」「外交」「経済」「社会保障」等、どの面からも甘く美しい言葉に隠れて社会主義的な考えが忍び寄ってきています。
私は、「自由」や「国家の気概」が失われていく日本の根底に強い危機感をもっています。
新しい「令和」の時代は、「戦後失った精神的支柱」を取戻し、自助努力からの繁栄と共に未来を拓くべきです。
硬直化した江戸末期に生を受け、西郷さんと共に戦い、新しい時代を開こうとした私のご先祖さま。
その想いを受け継ぎ、時代の開拓者として走り続けて参ります。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。最後までお読み頂きどうも有難うございました。鹿児島での取材は、映像で取材しています。 YouTubeにもアップしておりますので、是非ご覧ください。

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